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伝えたい話・残したい話

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2016/07/20(Wed) (第2303話) ボランティア寺さん MAIL 

 “熊本地震からわずか二日後に週末の名古屋市中村区で、二百五十人の大学生らが募金を呼び掛けた。「時間に融通が利くのが学生の強み」。学生でつくる被災地支援のネットワーク代表で、名城大四年の山口春菜さん(21)は胸を張る。就職活動の合間にスーツ姿で駆けつけ一時間だけ参加してくれた友人もいたという。
 そんな話を聞いたのは、先月、同区の愛知大で開かれたボランティアを募るイベント。会場では他にも大学生が運営スタッフなどで活動していた。「就活のためにボランティアをする人もいるでしょ」。少し意地悪に聞いでみた。「そういう目的もウエルカム(歓迎)。少しの気付きがあったり、最終的に変わったりすればいいかな」と山口さん。堅苦しいイメージを取っ払い、会合への参加も強制はしない。緩く、軽く。一見不安定なつながりなのに、大きな力も発揮する。そんな柔軟な姿勢が、なんだかとても頼もしく見えた。”(7月4日付け中日新聞)

 「放課後」と言う記事欄からです。ボランティア活動も昔に比べ随分多くなったと思う。良いこと、嬉しいことである。特にこうした学生など若い人がやってくれると嬉しい。こうした経験は必ず生きる。若い人は先が長い。楽しみである。
 この文の中で、興味を引いたのは「そういう目的もウエルカム(歓迎)。少しの気付きがあったり、最終的に変わったりすればいいかな」と言う部分である。ボランティア活動を就活に活用する、それでは無償の奉仕活動と言えない。偽善者とも言うだろう。これをこの学生は否定しない。まずはすることである。している内に変わればいいという。寛容である。ボクもこの態度に賛同する、大賛成である。と言うより、ボクは昔から「偽善も善」と言ってきた。気持ちはどうだろうと、するとしないは大違いである。いくら気持ちがあってもしなくては何の効果も及ぼさない。批評家だけではよくない、まずはする。そして多くの場合、この学生が期待されるように最終的に変わる場合が多いのである。前回の「話・話」で書いたように「人の目を気にしてヒーローになるのである」。




2016/07/18(Mon) (第2302話) おじいさんがヒーロー寺さん MAIL 

 “名古屋市昭和区の鈴村育子さん(五六)は、多発性硬化症という難病で車いすの生活を送っている。自宅では、なんとか壁などにつかまりながら歩けるが、全身に痛みやしびれがあり、一人での外出が困難。そのため、市バスを利用しての通院や買い物には、ヘルパーさんに同行してもらい介助をお願いする。(中略)
 今年の二月。いつものように、バス停で降りようとした時のこと。鈴村さんが先にバスを降りた。続けて、ヘルパーさんが車いすを降ろそうとした時のことだった。鈴村さんの前に降りたおじいさんが、突然クルッとこちらを振り向いた。「何事か?」と驚いていると、タンタンッと再びバスに乗り込んで行く。そして、車いすをヒョイッと持ち上げて歩道まで降ろしてくれたのだ。「思わずヘルパーさんと顔を合わせて『カッコーイイー』と叫んでしまいました。お礼を言いましたが、ただ笑って去って行かれました。七十五歳くらいの方かとお見受けしましたが、なんて頼りがいのある!つらい日々の中で、ヒーローに出会ったような気持ちになりました」と鈴村さんは話す。”(7月3日付け中日新聞)

 志賀内泰弘さんの「ほろほろ通信」からです。このおじいさんはいつもまわりの状況に気を配り、行動できる心優しい人であろう。とっさの時にこういう行動ができる人はまさにヒーローである。こういう人をカッコーイイーと言うのである。お二人が感激されるのももっともである。ボクなどは後でああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと、行動力のなさを嘆くのである。しないのなら思わないなと結果は同じである。昔に比べ社会は優しくなり、障害者やいろいろ不都合な人を町中でよく見かけるようになった。この話のように少し手助けすれば、更に行動しやすくなる場面もよく見かけるようになった。そんなとき気づいたらすぐに行動である。人の目を気にしないで、・・・いや人の目を気にしてヒーローになるのである。




2016/07/16(Sat) (第2301話) 堤防決壊寺さん MAIL 

 “川と聞くとすぐ、1976年9月の長良川決壊を思い出します。岐阜県は台風の影響で数日前から記録的豪雨に見舞われました。私たちは三年前に当地に移り住んだばかりでした。消防団に所属する夫は、昼ごろに駆り出されていきました。サイレンの音、消防車が出動する音が、今も耳に残っています。家に一人で取り残された不安がいやでも増しました。
 幸い、わが家は床下を水が通り抜けるだけの災難で済みました。しかし床上浸水し、部屋の半分が漬かったお宅も多くありました。思い出すたびに涙が出そうになります。
 現在は堤防も補強されていますが決壊の記憶はいまだに消えず、豪雨や地震が恐ろしいです。長良川と揖斐川に挟まれたこの地域にとって、川は怖い存在。あれからちょうど40年、災害が繰り返されないよう願っています。”(7月3日付け中日新聞)

 岐阜県安八町の主婦・中名さん(女・76)の投稿文です。ボクのところで最近の豪雨と言えば東海豪雨である。新川始め多くの堤防が切れた。一面水浸しとなり愛知県下では被害も大きかった。ボクは水害に対して比較的安全な地域に住んでいる。自宅は近くを流れる川の堤防より高く、この時も自宅への被害はなかった。それでも川は溢れ、かなりの高さまで水が来た。その後大きな河川改修がなされ、今では少しくらいの水ならすぐ引いてしまう。稲が水に浸っている時間は格段に短くなり、被害も少なくなった。しかし、一度改修したらいつまでも安全という訳ではない。豪雨の程度がますます大きくなっている気がする。時間雨量100mm越えなどは珍しくなくなった。いざという時の備えはおろそかにできない。特に家が堤防より低いところは要注意である。いつ溢れ切れるかも知れない。すべてのものは老化する。
 長良川豪雨からもう40年になるのか。先日この地方へ行った。あの災害を忘れたように住宅地は広がっている。40年もたてば忘れる訳である。知らない人も増えている。でも地域の特性は知っておいた方がいい。しておかねばならない。




2016/07/14(Thu) (第2300話) 案内放送に感謝寺さん MAIL 

 “駅の窓□で道を尋ねた際、後ろに三歳くらいの女の子とママが並んでいた。私の次に、ママに抱かれた女の子が「いつもお仕事頑張ってくれてありがとう」と笑顔で、大きな声で駅員さんに話し掛けた。朝からすがすがしい気持ちになった。駅員さんの行動を仕事だから当然だと見ていた。早朝も夜遅くも笑顔で対応してくれるのに感謝したことがなかった。
 通勤電車で、こんな放送を聞いた。次の駅の案内の後に「これから先も気を付けてお帰りください」、「雨が降ってまいりました。傘などのお忘れ物のないようにお気をつけください」。スマートフォンから目を離し外を見ると小雨。気付かなかった。感謝を忘れてはいけないなと、あらためて感じた。”(7月2日付け中日新聞)

 岐阜県垂井町のパート・古山さん(女・59)の投稿文です。こうした鉄道関係者始め接客業の人の態度は、昔に比べ非常に丁寧、親切になったと思う。しかし客の要望も大きくなった。メディアの発達も手伝って、少し不満があると大きく報道される。おちおちしておられなくなった。仕事だから当たり前と言う受け取り方も多い。そうした中、古山さんのこの投稿文はいい。仕事であっても嬉しいことは嬉しいといい、感謝を表したい。努力は評価をしたい。それが努力をしている人の励みになる。何も当たり前ではないのだ。
 この女の子の言葉は両親の躾である。子供は正直である。親の言うことにすぐに従う。もちろん従わない厄介なことの方が多いが。この感謝の言葉は親の態度を表わしたものである。良い親に育てられこの子も幸せである。




2016/07/12(Tue) (第2299話) ぼんぼん時計寺さん MAIL 

 “実家にかけた電話の向こうから、聞き慣れた振り子式柱時計の音が聞こえる。九十年くらい前から、三十分おきに時を知らせてくれる深みのあるあの音を聞きたくて、いつもその時を狙って電話をかける。黒光りする太い柱に掛けてある大きな柱時計。昭和、平成と移りゆく時代と、変わりゆく家族の姿を、どんな思いで見ていたのかしらと、時々聞いてみたくなる。
 百歳を超えた母が嫁いできた日も、この音が迎えてくれたのかしら。ベッドの中で過ごすことが多くなった母が食卓を囲むとき、昔から決まって柱時計の見える席に着き、時計を見上げる。同じような年め数だけ生きてきた母を、そっと見守ってくれているような気がしてならない。高い柱に掛けられている時計のねじを巻くのは、いつも父の仕事だった。そういえば、病床の父とお別れが近いころ、止まりそうになった時計のねじを、皆で願いを込めて巻いたことを覚えている。
 古時計も母と同じように時々、心拍数が乱れるときがある。ゆっくりと、深い音で、どうぞもう少し、母のお相手をしてくださいね。母が安らかな眠りにつくその日まで。”(6月26日付け中日新聞)

 愛知県新城市の主婦・粂野さん(76)の投稿文です。ぼんぼん時計とはまた懐かしいものが残っている家があるものだ。90年以上使っていると言われる。使えるものだ。手でまかねばならない、時間は狂う、油も差さねばならない、確かに使いやすいものではない。でも今残っている時計はその家の歴史を見てきている。それを知っている人には時刻を知らせる音に感慨を覚えるだろう。懐かしさがある。粂野さんは今も実家で奏でるその時を見計らって電話をすると言われる。気忙しい日々に一時のゆったりした時間になっているのだろうか。
 ボクの家にも古い柱時計があった。父がいつも手入れをしていたのを思い出す。ボクもいすに乗ってねじが回せる背丈になったとき、時折していた記憶がある。父が亡くなり、自宅を改装した時、処分をした。今はその場所に鳩時計がかかっている。こうした文を読むと惜しいことをしたと思う。置物としてだけでも残しておけばよかった。




2016/07/10(Sun) (第2298話) いつもの朝寺さん MAIL 

 “ある朝、ガチッと鈍い音。しまった。シンクの中をこわごわ見る。良かった。どこもかけていないようだ。ほっと胸をなで下ろした。このコーヒーカップは夫の葬儀の朝早く、私と夫が毎日通っていた喫茶店のご主人からいただいたものだ。
 葬儀の前日、葬儀社の係の方に夫が大のコーヒー好きだったこと、毎朝欠かさず二人で喫茶店に行っていたことを話した。すると当日係の人が、私に内緒でその喫茶店に行き、店の主人に事情を話し、熱いコーヒーを届けてくれたのだ。その日から一年半余り、そのカップにコーヒーを注ぎ、仏前に供えている。
 退職後の夫と通った店は、カフェと呼ぶにはちょっと違う昭和の喫茶店というのがぴったりだ。店に向かう途中、ご近所の花を楽しんだり、顔見知りの方と立ち話をしたりした。店のドアを開け、いつもの窓際の席でスポーツ新聞を手に取る夫。絵に描いたような平凡な一日。でもそれは平凡ではなく、貴重な毎日だったことが手放してみてよく分かった。
 夫を思ってくれた人たちのおかげで、私たちはコーヒーをはさんでいつもの朝を迎える。夫もきっと喜んでいると思う。”(6月25日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・筒井さん(65)の投稿文です。今回はヒヤッとだけで終わった話である。思い出の貴重品をちょっとした不注意でなくしたら悔やんでも悔やみきれない。大方の失敗はちょっとした不注意である。考えた末の失敗なら、納得もあきらめも早い。まずは良かったと胸をなで下ろすものである。
 最近の葬儀では、遺族から話を聞いて、それを朗読する場面によく出合う。筒井さんの場合でもそうであったろうか。その話の中で、コーヒーの話が出た。葬儀社では、密かにそのコーヒーを手に入れる手配をした。筒井さんにとってはサプライズとなる。そして、まさにそのようになった。筒井さんは頂いたコーヒーカップを大切にされた。毎朝、そのカップにコーヒーを入れて仏壇に供える。大きな心のよりどころになったコーヒーカップである。
 葬儀社も最近はいろいろ工夫を凝らされている。この先日本は高齢化社会となり、葬儀社は大いに繁盛するだろうと思った。それを見込んで結婚式場から葬祭場に変わった例も多かろう。ところが思ったようにはならなかった。葬儀数は増えたかも知れないが、規模はどんどん縮小された。家族葬がどんどん増えた。参列者は減った。客の奪い合いである。知恵を出して評判を取らねばならない。商売はいつも大変だ。




2016/07/08(Fri) (第2297話) 手紙に動揺寺さん MAIL 

 “今年も無事、誕生日を迎えることができた。前日か当日には友人から誕生祝いのカードや便りが届く。互いにプレゼント交換する友もいる。手紙をくれる友人は毎年、お祝いのメッセージから始まり、近況報告がつづってある。
 ところが、今年は封筒を開くと便箋の文面が違う。いきなり「出会った人に1人じゃ寂しいね、と言われると言葉に出せなくて大きく頷くだけです」の書き出しから始まって、息子さんの所に1人で行った時の様子が書かれてあった。気が動転した。友人はご主人と2人暮らしだった。確か年賀状は受け取った。今年になって何か起きたのだろう。私の頭の中はいらぬ妄想がかけ巡った。
 焦る気持ちに電話の長いベル音はまどろこしかった。容赦なく留守電に切り替わるのだった。ようやく長い一日が終わろうとする頃、彼女から折り返しの電話がかかった。「ごめんね。1枚目を入れ忘れたことに気付かなかったわ。それは2年前に死んだシロのことなの」。安堵したと同時に「もう、驚かせないで」と言いたくなった。けれど、愛犬を亡くした寂しさを今も引きずっていたのかと言葉をのんだ。”(6月24日付け朝日新聞)

 愛知県春日井市の主婦・大田さん(67)の投稿文です。手紙を途中から読み始めてびっくりした話である。少し笑える話しで、息抜きに取り上げました。当人には笑える話ではありませんが。でもありそうな話でもある。文章もキチンと読まないと大変な思い違いを起こす。当然である。この場合、読んだ人に責任がなくて、送った人が1枚目を忘れたのだから面白い話になる。
 ボクら夫婦も見ていると最近はそそかしくて笑えることやびっくりすることが度々である。電気の切り忘れは言うに及ばず、先日は風呂の水を溢れさせてしまった。手が滑って茶碗は割るし、ものをひっくり返すなどと言うことも度々である。そして余分な仕事を作っている。どう見ても老化である。この文章を書いている今、妻がコードを足に引っかけてあわてている。足も上がっていないのだ。もう少したつとこれで転ぶだろう。そして骨折する。もう笑い話ではない。歳を取るのはもう嫌だ。太田さんの話くらいで終えたいものだ。




2016/07/06(Wed) (第2296話) 田んぼはおしゃれさん寺さん MAIL 

 “梅雨入り前のある日、愛犬と散歩に行くと、見慣れた田んぼの田植えが終わり、すっかり緑のじゅうたんになっていることに気付いた。水の便が良くなり、いつでも好きなときに田んぼに水が引けることや、田植え機の登場で、田植えの時期はだんだんと早まっていくようだ。
 私が子どものころは、六月が田植えの真っ盛りで、小学生も貴重な戦力として手伝った。ぬかるむ田んぼに足を取られながら、早苗を一生懸命に植えても、その間隔はバラバラで、目印のひもがあるのに真っすぐではない。お世辞ににも上手に植えたとはいえないのを見て、両親にはやかましく注意された。仕事の合間の休憩に母親はこう言った。「田んぼはおしゃれさんやでな。きれいに植えとかなあかん」嫌な仕事を泣きべそかいてやっていた子ども心に、染み込んでくる言葉だった。
 ホタルが飛び始めたというメールも届くようになったこの時期。あちらこちらで見受けられた田植え機の姿はめっきり少なくなった。田植え機で植えられたきれいな田んぼが夕焼けに染まるのを見ながら、三年前に亡くなった母親が笑顔で言った「田んぼはおしゃれさん」との言葉を思い出している。”(6月20日付け中日新聞)

 岐阜県養老町の伊藤さん(男・69)の投稿文です。伊藤さんはボクと全く同年代、いろいろな体験が重なるだろう。子供の頃の話しにあるともう忘れられてしまったことも多かろう。こういう投稿が思い出させてくれる。
 ボクの子供頃には田植え休みや稲刈り休みがあった。田植えをした後休むことではない。小学生も田植えを手伝うために学校が休みになるのである。数日間あったと思う。ボクのところの田植えは7月1日と決まっていた。田にまだ入れない低学年の時は妹の面倒を見た。田植えができる年齢になると田植えを手伝う。田植えの仕方もいろいろあったが、伊藤さんのところのように綱を張って植えるのが一般的であった。こうすれば苗が綺麗に並ぶのである。「田んぼはおしゃれさん」と言うことである。ところがボクの家は綱を張らなかった。当然畝はクニャクニャである。曲がり放題である。綱を張る手間を省いたのである。両親とボクが一列に並んで植える。こんな家はほとんど見かけなかった。昼頃になるともう腰が痛くてたまらなかった。早く植えられたと思うが、疲労は何倍もあったと思う。
 今昔の農業を思うと、あんな大変なことをよくやっていたものだと思う。器具と言えば備中、クワ、万能くらいである。これらはすべて体で動かすのである。動力ではないのである。昔のことを思い出すと涙が出てくるくらいである。その中でも、真夏炎天下で1反以上ある畑を備中で起こすことである。よくあんなことできたと思う。この体験がそのまま今に生きることはないが、知る知らない、体験があるない、は大きな違いである。




2016/07/04(Mon) (第2295話) 野府川美化寺さん MAIL 

 “一宮市の開明地区を流れる野府川の美化に取り組んでいる市民グループ「野府川をキレイにする会」の活動が四年目を迎えた。かつては草木が生い茂り、不法投棄がまん延していたというが、近くの人が散歩できるほどの憩いの小川になった。会の世話人の長崎典宣さん(69)によると、2013年春に活動を始める以前の川は護岸に土砂が積もり、伸びた木々は堤防道路にまでせり出していた。家具や自転車力とを捨てる人も多く、「誰も寄り付かない川」だったという。
 草木や土砂を撤去する県の護岸整備工事を機に、近くの住民六十人ほどで美化活動を始めた。月に一度集まり、ごみを拾ったり、コンクリートの隙間に生えた草を抜いたりしてきた。「川を守っていこうという住民の意識が変わってきた」と会長の桜庭清三さん(七三)。川の魚は増え、堤防道路も歩きやすくなったという。活動は周囲にも広がり、範囲は当初の三倍ほどの計3.2キロになったという。協力者も百六十人にまで増えた。(後略)(6月15日付け中日新聞)

 記事からです。またボクの近くの地域的な話題である。野府川はボクも知っている。しかし、こんな会があることは知らなかった。活動を始めて4年目と言われるから、知らなくて当然かも知れない。良い活動である。最近こんな活動がボクにも身近なことになる気配があり、興味が湧く。少しでもいろいろな事例を知っておきたいと思っている。
 ボクの家の近くを流れる川の堤防を遊歩道にしようという計画が持ち上がっている。今年度の入って、市から測量や設計が発注された。この計画にはボクも当初から係わっている、と言ってもいい。散歩する人は多い。多くは農道を歩く。堤防を歩ければ安全だし、気持ちもいいだろうが、草が茂って歩けない。そこでボクが町会長の時、市に要望したのである。いろいろな経過を経るが、それが実現するのである。ボクの要望はボクの町内だけであったが、実現すればもちろんボクの町内だけでは終わらない。前後の町内も含めて3km程度になると聞いている。遊歩道が実現したとき、市任せでいいだろうか。地域住民が動かねば乱れていくだろう。この「野府川をキレイにする会」の活動は参考になる。もっともっとこうした活動の情報を集めたい。




2016/07/02(Sat) (第2294話) 道ひと筋寺さん MAIL 

 “五月の日曜日に、高校卒業五十周年の同窓会があった。いつも東京から参加する級友T君の姿がないので、幹事に尋ねると、体調が思わしくなくて今回は欠席だという。その五日後、彼の訃報が届いた。
 T君は大学卒業後、日本点字図書館に就職し、一生をその仕事にささげた人だ。なぜ点字だったのか。そのきっかけは、高校時代のボランティアだったと、いつのころか聞いた記憶がある。「それが仕事になるなんてね」。彼は恥ずかしそうに言っていた。
 在職中は数々の点字出版物を手掛け、1998年には自らも『点字・点訳基本入門』という手引書を出版した。級友のよしみでいただいたが、地元でほそぼそと点訳ボランティアをしている私には、まぶしくも心強い存在だった。
 遺言で献体し、葬儀は行わないと伝え聞いた。視覚に障害のある方にずっと寄り添い、そのサポートをするボランティアを多数育て、最後には自らの角膜をも提供して、彼は旅立った。「道ひと筋」という生き方に徹した級友は、人生のしまい方も見事だった。そういえば、今年の年賀状は北陸新幹線車窓から写した山河の写真だった。肩の荷を下ろした彼は今ごろ、美しい風景を追って、旅の続きをしているに違いない。”(6月15日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・洲淵さん(68)の投稿文です。高校時代にボランティアで体験したことを仕事にして一生を見事に終えた。道ひと筋に生きた。こういう人は当然大きな功績も残す。良い人生だったろう。少なくとも同級生の洲淵さんは敬服されている。心から1人でも敬服する人があれば、それは1人では終わらない。この文を読んで敬服された人は多かろう。ボクもその1人で、だからこうして紹介している。
 「道ひと筋」この価値をもう一度考えてみたい。これは継続と言うことである。継続の価値は高い。「継続は力なり」続けていれば能力もでき、いろいろな成果も生む。いろいろな考え方、生き方があるが、大きなことのできない凡人には小さなことの継続ならできる。またそれしかできない。それができればもう凡人ではなくなる。継続はそれ程に難しい。これはボクの口癖である。




2016/06/30(Thu) (第2293話) 仲人寺さん MAIL 

 “私たちが結婚したころは、家と家の結婚式とされ、結婚の承諾を受けると両親は両家を取り持つ仲人を立てて大安吉日を選んで結納など手順を踏んで儀式を行い、神前結婚式に臨むのが一般的でした。
 時代が変遷し、結納は略されつつあり、仲人を立てることも減りました。私は、両人の尊敬する先輩ご夫妻を仲人ならぬ立会人としてお願いすること、その夫婦は今後の二人の生活を見守り、折に触れて助言することを提案したいです。家族と別居して暮らす現代夫婦は人生経験も浅く、他人からの忠告により気付くこともあるでしょう。
 私たちの仲人の叔父さんは数年前に他界しましたが、客観的な立場で支えてくれました。末永い幸せを守りたいです。”(6月14日付け中日新聞)

 長野県飯田市の会社員・鎌倉さん(男・62)の投稿文です。結婚式に出る機会もなくなったボクの今に、現在の結婚式模様がどうなっているのかよく分からない。仲人さんというものはあるのだろうか。見合い結婚はどの程度あるのか、その場合仲人さんを立てるのか、知らない。結婚しない人が増え、またしても晩婚化してることは知っている。これが少数の時は個人の自由としてあまり問題ではないが、多くなると人類や日本社会存続の問題として大問題である。今もう大問題になっているのではなかろうか。
 仲人さんは、少し煩わしいが良い制度であったと思う。人間自由はありがたいが、見守る人がいないと間違いを起こしたりわがままに陥りやすい。欠陥のない人間はいない。見守る人に親や先生など多くの人もあろうが、結婚と言うことになると仲人さんが最も身近である。それが例え頼まれ仲人さんであっても、結婚に起因する問題だと仲人さんが頭をよぎる。自制が働く。相談に行く気にもなる。
 ボクも結婚式だけの仲人さんを頼んだ。でもそれだけでは終わらない。その後も時折自宅を訪ね、いろいろ報告した。何かの折りに意識し自制が働いたと思う。




2016/06/28(Tue) (第2292話) 兄と私の文集寺さん MAIL 

 “膠臓ガンの兄から、亡くなる1ヵ月ほど前に電話があった。「文集を作ろう。題名は『僕らはあの頃少年だった』や」。子どものころ、兄からの発案で色んな遊びをした。死期を悟った兄からの最後の発案だと思い、すぐに、町内の少年野球大会で兄がレギュラー、私が球拾いで参加して優勝した思い出を書き、兄に送った。兄も野球大会で一緒に活躍したタッコンやニシムラのことが「夏休みの野球の期間だけの友達だったけれども、忘れられない『ヤツ』達である」などと綴っていた。
 また電話があり、今度は叔母たちの思い出を書こうとのことだった。父が応召中に母の実家で生まれた兄は、父が復員してからもしばらくの間、母の実家で過ごした。その間に私や弟妹も生まれた。同居していた叔母たちに兄も私もよく可愛がってもらった。兄からは、家族団欒の席で、司会老役の叔母にすすめられて兄が「リンゴの唄」を歌い、拍手喝采をもらった思い出などを書いた原稿が届いた。
 「苦しい時や悲しい時には、楽しいことを思い浮かべて耐えるんや」と兄に教えてもらったことがあった。兄は幸福な幼少年時代を過ごしたに違いない。兄よ、安らかに。”(6月12日付け朝日新聞)

 兵庫県明石市のアルバイト・榎本さん(男・68)の投稿文です。死を身近に覚えたとき、思い出を書くことを思いつき、弟を誘う。素直に応じる弟、この時兄弟は70歳近い歳と想像される。この行為に感じ入るとともに、何と仲の良い素直な兄弟と思う。
 死を知ったとき、または人生をほぼ終えたと思ったとき、1人思い出を綴ることは多くの人がしたくなることだと思う。自分の一生は何だったのか、自分の一生を総括しておきたい。自分の存在を確かなものにしておきたい。自分史が盛んに作られることもその理由だろう。ボクがこの「話・話」を書きながら、自分の過去に少しずつ触れているのもその現れであろう。平凡なありふれた人生も本人にとってはかけがえのない人生でる。これでいいと思う。それでこそ自分を大切にできると思う。
 そんな中、榎本さん兄弟は素晴らしい。こんなことができる兄弟はそんなに無いと思う。




2016/06/26(Sun) (第2291話) 別れの日まで寺さん MAIL 

 “「妻よ! 二十九年前にあげた、『愛国発幸福行』のキップ。そろそろ幸福駅は見えてきましたか」。これは五年前、朝刊地方版に掲載された私の一言投稿です。
 結婚して間もないころ、古代ローマの哲学者キケロが残した「朋友はわが喜びを倍にし、悲しみを半ばにす」の言葉通りの心境でした。「妻に出会えて良かった」というメッセージとともに、思いを込めた切符を贈ったのです。
 不器用な生き方しかできなかった私と三十三年間も連れ添ってくれた妻には、ありがとうの言葉しかありません。波瀾万丈とは言わないまでも、いくつかの山や谷を越えてきました。妻のおかげて子ども二人は十分、私たちを超え、それぞれわが家を巣立っていきました。
 「幸福駅」に降り立つ日はまだまだ先のことでしょう。が、いずれ訪れるであろう別れの日までは、二人三脚でよろしく。”(6月5日付け中日新聞)

 三重県桑名市のアルバイト・竹尾さん(男・64)の投稿文です。愛国駅と幸福駅の話である。1973年3月5日にNHKのドキュメンタリー番組「新日本紀行」で『幸福への旅〜帯広〜』として紹介され、これがきっかけとなり、「愛国から幸福ゆき」の切符が大人気となっている。そして駅の役割は1987年に廃止されているが、建物だけは保存されている。。この年数から想定するに結婚してすぐに妻に贈った竹尾さん、まさに幸福な気分だったでしょう。それから33年近く、一通りの社会の役目も終えられ、悠々自適の生活の入られたと感じられる。
 結婚が「朋友はわが喜びを倍にし、悲しみを半ばにす」の言葉通りの心境であると言われるのもいい。一心同体、相思相愛を感じる。「幸福駅に降り立つ日はまだまだ先のことでしょう」という意味はどういうことでしょう。幸福駅は終着駅、幸福駅へ降り立つのは、死を迎えたときと言うことでしょうか。愛国駅から乗って、そのままズッと幸福ではなかったのでしょうか。列車に一緒に乗っている間は幸福に向かってひた走りだったのでしょうか。そして行き着いた幸福駅でそのまま天国へ。ボクにはそのように思えないが、いずれにしろ良いご夫婦であられたことは十分に感じられる。ボクも十分に同じ気分であるが、こんな粋なものを贈っていたら評価はもっと上がっただろうに。




2016/06/24(Fri) (第2290話) 専業主婦の妻寺さん MAIL 

 “娘が生まれ、妻は仕事を辞めて専業主婦の道を選んだ。「子どもには精いっぱいのことをしてやりたい」というのが一致した考え。私が外での仕事を、妻が家の仕事を受け持つという「分業」がスタートした。おかげで私は安心して仕事に集中できた。妻はいつも笑顔で私を送り出してくれた。家事一切、子どもの世話、学校や子ども会の役員の仕事、やがては親の看病なども加わり、彼女は毎日忙しく動き回っていた。
 最近、家事や子育てに励む若いお母さんたちが、不安を持っていると聞く。自分は活躍していないのではないか。子どもを預け、外で働かなくてはいけないのではないかと。
 私たち夫婦は受け持った仕事にそれぞれ精いっぱい取り組んだ。無事に定年を迎えられたのも、そのおかけだ。時代が違うかもしれないが、いろいろな場面でさまざまな活躍があってもいいのではないだろうか。私は妻に感謝している。専業主婦の彼女は立派に「活躍」しているのだから。”(6月5日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の林さん(男・65)の投稿文です。「専業主婦」について語られて長いことになる。ここでも何度も話題にしただろう。それでも尽きない。子供にとって母親は何物にも代えがたい。父親や社会が代わりにやっても限度がある。どう頑張っても父親から乳はでないのである。母親が主に子育てをするのは生物として自然である。社会で働くかどうかは、人間社会のことである。社会に貢献したい、金銭的余裕を持ちたい、これは社会の中のあり方の問題である。どうでもいいような前置きをして、林さんの話しにしよう。林さん夫婦は2人の考えが一致し、金銭的余裕もあったのであろう。奥さんは専業主婦を選ばれた。2人で働くより金銭的余裕は少なくなったろうが、生活に余裕はできた。奥さんが専業主婦を選ばれたのは、林さんに専業主婦の価値を認める考えがあったことも大きいと思う。それはこの投句文でも十分に感じられる。ボクの妻も子供ができた時、専業主婦の道を選んだ。その結果、子育てと共に地域の中で活動する場所も与えられ、多くの知人を得、今もその恩恵を受けた生活をしている。この話を書き始めると切りがないので、この辺にしておきたい。
 ところで、最近「孫源病」なる言葉を聞くようになった。年老いた老母に孫の世話の負担が大きいという話である。これもボクの身近でよく聞く話である。今のボクにはこの話の方が興味を引く。




2016/06/22(Wed) (第2289話) 父からの贈り物寺さん MAIL 

 “父の日を前に、今年も父から郵便局の「ふるさと小包便」が届いた。昨年は何の連絡もなく力二が届いたので、何かの懸賞に当選したと勘違いした。が、父からとわかり、隔月で届く商品を心待ちにしていた。果物やゼリーなど子どもや私が大喜びする物が1年間届いた。姉からもメールで「うちもきたよ」と。
 弟が局員なので、父も協力していたのだろう。親心というヤツだ。が、その父は2月に急逝し、今は天国に母といる。もうこの世にいない人が差出人なので、驚きと同時に涙があふれ止まらなかった。
 申し込む時、父はまさか自分が死ぬなんて思ってもいなかったわけで、私や姉家族に喜んでもらおうと、ただ思ったはず。そんな父の優しい思いが私たちの所に届いたことが、うれしかったし悲しかった。すぐ側で励ましてくれている気もして心強かった。
 今回届いた宇都宮餃子を食べながら、幼い頃、母と一緒に作ったギョーザを思い出した。まさに「ふるさと小包便」となった懐かしい気持ちと愛が詰まった父からの贈り物となった。「お父さん、ありがとう。私は元気です。次のおいしい物、まってます」”(6月1日付け朝日新聞)

 愛知県江南市の保育士・青山さん(女・48)の投稿文です。亡くなった人から贈り物が届く、受け取った人の気持ちは、嬉しいと共に複雑だろう。こんな人は多分突然亡くなることが多いだろうからより複雑である。青山さんの場合、贈り主はお父さんであった。お父さんは80歳前後であったろうか。父親の子供達への思いやり。母親とは違うものがある。ボクと妻とを見ていると全く違う。妻は目の前の喜ぶことをする。ボクは将来を思ったことをする。子供の喜びようは全く違う。孫はもっと目の前である。妻が断然有利だ。これも役割であろうか。ボクももう少し青山さんを見習ったらと思う。でもできない。今のことは自分達でしなさい、と言いたい。そんなに甘やかしていいのか、と言いたい。妻は残してやるより今与えた方がいいという。妻がすることに苦情を言わないことが精々である。




2016/06/20(Mon) (第2288話) サクランボ寺さん MAIL 

 “さわやかな五月は、私にとって特別な月である。サクランボの実が鈴なりになって、楽しませてくれるからだ。木は植えて十年余がたち、車庫の屋根を越えたころからやっと花が咲き、以来毎年、実がつくようになった。
 例年、三月の初めに花が咲きだし、花が散るとマッチ棒ほどの実がつき、日ごとに大きく育ってくる。熟して食べごろになるのは五月十日すぎ。でも今年は早く色づいた。もっと眺めて楽しみたいのに、鳥が来て騒ぎだした。「ちょっと待ってよ」と、鳥を追い払う。店に売ってるサクランボより実が小さく、味も及ばないが、ちょっと酸っぱいのや甘いのが魅力だ。青空の下、日に輝く赤い実は、宝石のようで美しい。見ていると幸せな気分になる。
 友達や知人にお裾分けすると喜んでくれる。毎年楽しみに待っていてくれる人がいるので、欠かせない行事だ。あとはジャムに炊く。小さい実の種を取る作業は大変だけど、味は絶品だ。その後は、木を鳥に開放すると、実がなくなるのに一日とかからない。実がなくなっても、鳥はうれしそうに鴫いて、落ちた実を拾っている。忙しい一週間が過ぎた。サクランボの木に、ありがとう、また来年もよろしくと、心の中でつぶやいた。”(6月1日付け中日新聞)

 三重県伊勢市の主婦・中西さん(75)の投稿文です。サクランボへの思いである。1本の木にもいろいろな想いや思い出がある。わが家にもサクランボの木がある。植えてもう20年以上たつだろう。そのサクランボが今年の収穫で終わるのだ。今年末にはその畑が人手に渡ることになっている。中西さんの文から書いておく機会を得たと思った。植えたのは父が亡くなって専業農家を終えたことにある。残された畑をどうやって維持していくのか。そこで何本もの果実を植えた。耕す部分を少しでも減らすことと自家使用できる食べ物を増やす為である。みかん、柿、梅、そしてサクランボを植えた。サクランボもよく成るようになった。摘花などせず自然に任せた。だから成る数の多さは凄い。多いから実は全く小さい。グミの実くらいである。一斉に成り、一雨ですべて落ちてしまう。その間に採れるだけ採る。妻の執念は凄い。野菜などもいくらでもあるが、少しも無駄にしないと使うことにこだわる。女の執念は怖いくらいである。小さくてもサクランボはサクランボ、サクランボの味はする。サクランボなど買ってきたら高価であるのでなかなか食べられないが、よく食べてきた。今年で梅も終わる。梅こそ、梅干しを始め梅酒、梅ジュースなど良く活用した。これは少し寂しい気がする。みかんは他にもあるが、手軽だからまた植えよう。サクランボと梅はさようならである。




2016/06/18(Sat) (第2287話) 似顔絵1万枚寺さん MAIL 

 “七十歳から地元の保育園、幼稚園の卒園記念に園児の似顔絵を贈り続けている。一万枚を目標に、九千八百枚になった。昨年、がんのため入院し現在治療中だが、園児たちは似顔絵を待っている。年長児が絵をもらうのを見た年下の子たちは「僕たちももらえる?」と先生に聞くらしい。
 体力がなくなり、手に力が入らなくなり困っている。毎日紙に線や円を描く練習をしている。ようやく以前のように絵が描けるようになった。今年も市内の全園児を描きたい。一人一人に以前のように手渡しして喜ばせたいが、体力がなくなり歩けず、自動車の運転もできない。園長さんに渡してもらい園児たちを跳び上がらせて喜ばせたい。
 十三年前、一幼稚園の園児の似顔絵を描いて以来、市内の全園児を十三年間も似顔絵で喜ばせている。最初に描いた園児は、もう大学生になっている。この似顔絵によって大府市の各家庭が笑顔で明るくなったらしい。うれしい。”(5月31日付け中日新聞)

 愛知県大府市の深谷さん(男・83)の投稿文です。この深谷さんは、2012年9月5日の「話・話」第1653話で紹介しています。あれから5年、83歳になられ、枚数も1万枚近くになった。毎年1000人である。凄い精力が要る。そのために体力も付けておられる。70歳にして生き甲斐を見つけられた。これだけ楽しみにしている人がいては止めるに止められない。人間幾つになってその人の価値が出るか分からない、と言うものの70歳である。70歳というのは今のボクである。ボクもこれからなのか。ところがボクはいろいろしてきたことの仕舞い方を考え始めている。遺産相続のことも考え始めた。ガン手術が影響している気がする。でも手術はもう10年憂いなく活動するためであった。「明日死ぬと思っていきなさい。永遠に生きると思って学びなさい」良い言葉が机の上に載っているではないか。両面を頭に入れながら過ごしていくのだろう。勤務は来年の今頃で完全退職予定だ。しかし、市議会議員との二人三脚は始まったばかりである。先日中学校の同窓会を開いた。卒業以来世話役をしてきたと言っていい。交替を言おうかと思ったが、言い出すことは止めにした。他にも長いこと世話役をしているものがある。辞めた方がいいかと思ったが、自分からは言い出さないことにした。今すら物議を醸すこともないし、言われたらすみやかに応じればいい、と言うことにした。




2016/06/16(Thu) (第2286話) 10年前の手紙寺さん MAIL 

 “ゴールデンウイークのある夕方、いつもどおりにポストをのぞきこんだ。私の字で子どもあての手紙があった。「あれ?」と思って見ると、それはなんと、十年前のゴールデンウイークに家族で博物館明治村へ出かけ、その中の宇治山田郵便局舎で息子が十年後の自分に書いた、すっかり忘れていた手紙だった。
 感激して封をあけると、かわいい字で一生懸命書いた文字があった。「10年後のぼくへ。夢は変わっていませんか? 一生懸命勉強していますか? 納豆は食べていますか?」と。
 高校三年の息子は、大学受験に向け勉強中だ。十年前の自分に励まされ「よし、やらなきゃな!」と言った。手紙の最後には「じいじ、ばあば、まだ生きていてくれていますか?」とある。両親に手紙を見せに行くと、涙ぐみながら大笑い。「じゃあ、元気なうちに十年後の健大へ手紙を書きに行こうか」大好きな明治村、ありがとう。また家族で出かけたい。”(5月31日付け中日新聞)

 岐阜市の会社員・飯塚さん(女・46)の投稿文です。2016年5月5日の「話・話」第2265話で「5年前の彼からの手紙」を紹介しました。5年後の誰かに届く手紙です。今回は10年後の自分に届く手紙です。なかなか妙味のある企画です。今の自分を思って書くのか、10年後の自分を思って書くのか、いろいろな書き方があるでしょう。10年後は予想できてできないものです。開いて悲喜こもごもでしょう。飯塚さんの場合はどうも喜びであったようです。特にじいじ、ばあばは大喜びであった。
 博物館明治村の郵便局というのがまたいい。この企画はいつもやっているのだろうか。ボクにとっては近くの観光地だし、久しぶり訪ねてみたいものだ。さてボクの10年後はそれこそ不確かである。人生最も不確かな年代に入ってきた。生きているのかも分からないし、生きていても健康とは限らない。認知症であるかも知れない。と遠慮気味に言っているが、本当は少し元気さは衰えているがあまり違わないと思っているのである。思おうとしているのかも知れない。




2016/06/14(Tue) (第2285話) ストロベリートーチ寺さん MAIL 

 “四月二十日は、母の六十八回目の誕生日だった。当日、離れて暮らす母にお祝いを伝えようと、母の携帯に電話する。出ない。そこで父の携帯に電話する。「もしもし、お父さん。今どこ。お母さんは?」「今、お母さんへのプレゼントのために畑に来てるんだ。お母さんも一緒にいるよ」と父。「え、大根でもプレゼントするの」「いや、畑全部がプレゼントなんだ」「どういうこと?」
 「畑一面を真っ赤な花畑にしたんだ。それを今、お母さんにプレゼントしているとこ ろ」
 父は農業を営んでいる。父に話を聞くと、どうやら母の誕生日ごろに満開になるように、畑一面に花の種をまいたらしい。花の名はストロベリートーチ。その名の通り、イチゴの果実に似た花穂で、畑一面、真っ赤に染まる。父が電話で続けて言う。「昨日、公民館にかけてあった花のカレンダーで偶然知ったんだけど、ストロベリートーチは四月二十日の誕生花だったんだ」。そんな奇跡、本当にあるんだ。
 後日、父に会ったとき「お母さん、喜んだでしょう」と聞くと「それほどでもなかったみたい」。父は照れくさそうに笑った。”(5月28日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・佐々木さん(39)の投稿文です。誕生日祝いに畑一面に花を咲かせるとは、スケールが大きい。素朴である。こういう話しは何とも嬉しい。それも誕生花と知らず蒔いたという。言われるようにこれぞ奇跡である。この行為に感激して神様のプレゼントではなかろうか。あまり嬉しそうではなかったと言われるが、これはテレである。この年代は表現が控え目、上手ではないのだ。この「話・話」は良い話を集めているが、ボクにはこの話は最近一番の痛快な話の気がする。
 さてボクの妻の誕生花を調べて見た。あるはあるは、オシロイバナ、カラー、ガーベラ、コマチソウ、サンスベリア、ダリア、ツユクサ、ナデシコ、フロックス、マルバシモツケなど20種類くらい載っている。ナデシコなら今わが家の庭に咲いている。誕生日まで持つのだろうか。誕生花とはその頃に見頃になっているものではないのか。カラーも誕生花とある。カラーは今のわが家にはない。カラーは球根であるので、今でも手に入るかも知れないし、調べて見ると誕生日の頃に咲いている可能性があるようだ。畑一面とはならないが、1株2株なら手に入るかも知れない。ダリアもツユクサもわが家にはある。オシロイバナが代表のようだ。もう少し調べてみよう。




2016/06/12(Sun) (第2284話) 親子で献血寺さん MAIL 

 “娘の高校の代休と私の仕事の休みが重なった日、娘を連れて最寄りの献血ルームに行ってきた。娘は自分の血液型が出生時に調べたきりであることを常々不満に思っており、献血すれば確定できるよ、と私が勧めたのだ。
 娘にとっては初めての献血で緊張したようだが、受付スタッフの方、看護師さんが親切、丁寧に接してくださり、不安になることなく無事、200ccの献血をすることができた。
 そして先日、血液センターからの血液型・検査成績の通知が届いた。娘は血液型が確定できたこと、検査数値に問題がなかったことに妙にはしゃいで見入っていた。そういえば、私も二十年ほど前に初めて通知を見た時はそうだったな、と昔を思い出した。
 献血ルームのアットホームな雰囲気も分かったことだし、親子で献血もよいけれど、次回は友達と一緒に行ってくれたらうれしい。娘たちに「行っておいで」と言ってみたいと思っている。”(5月28日付け中日新聞)

 愛知県安城市の会社員・杉浦さん(男・45)の投稿文です。ボクも若い頃は盛んに献血に行ったものだが、ある薬を飲んだことによってできなくなってしまった。迂闊であった。それ以来献血のことは頭から去っていた。
 杉浦さんの文を読んで、親子で献血という方法があったのか、自分もしておくべきだったとこれも少し残念な気がする。
 献血についてはもう何度も「話・話」で扱っている。今は十分に足りているのだろうか。それなら良いが、そうでなければもっと広めねば。誘導策も採らねばと思う。




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